若草鹿之助の「今日はラッキー!」

日記です。孫観察、油絵、乗馬、おもしろくない映画の紹介など

ゴジラの逆襲2

「溶接いも」はわかりにくいあだ名だ。

家が溶接工場で、「いも」というのは苗字から来ている。
「溶接」と「いも」という異質なものの取り合わせがあまりに絶妙であったので、本人も、「溶接いも」と呼ばれることに非常に満足していたかどうかはわからんが、私たちはそう呼んでいたのである。

私は彼と気が合ったかして、よく彼の家に行った。
工場の横が池みたいになっていて、真っ白いもので覆われていた。
それは、「カーバイド」と言うものだと教えられた。

彼の家に行くといつもお母さんが十円くれて、私たちは駄菓子屋に走った。
今思うと、私は彼と気が合ったのか、十円がうれしかっただけなのかよくわからない。

彼の家での記憶は、「カーバイドの池」と「十円」だけだ。
他に何もおぼえていない。

「珍しいものが好き」で「人から何かもらうのが好き」という現在の私の性格は、当時ほぼ完成していたようだ。

彼と「バルボン」は、私立高校でいっしょだった。
二人が認めるところでは、成績では学年最下位の座を争っていたようだ。

バルボン」が言った。
「高校から大学へは、試験はあったけど毎年全員入学やのに、こいつだけ落ちたんや」
「溶接いも」の反論。
「ちょうど親父の会社が倒産して、落ちた方が親も気が楽やろと思てわざと落ちたんや。成績が最低やったんはおまえや」

バルボン」は大きくうなずいた。
「そうかもしれん。オレ、学校へ行ってる間ず〜〜っと成績悪うて、アホやな〜と思てたけどな、社会に出て仕事するようになって、オレはほんまにアホやな〜と思たわ」

これは悲惨な話のようだが、そうでもない。
彼は立派にかどうかは知らんが会社を経営しているのである。

私たちの時代は、1クラス50人であったが、この時の話では、男25人のうち3人がヤクザになっていた。

その内の一人、K君のことは覚えている。
私が高校3年のとき、母が血相を変えて新聞を持って飛んできた。
K君がヤクザ同士のケンカで日本刀で殺されたのだった。

わけがわからなかった。
K君は非常にひょうきんな子で、いつもおかしなこと言ってはみんなを笑わせていた。
私は彼に、喜劇役者になったらサインをして欲しいと頼んだことがあった。