若草鹿之助の「今日はラッキー!」

日記です。孫観察、油絵、乗馬、おもしろくない映画の紹介など

アテネオリンピックを見ていない

へそ曲がりではない。
見ているようで見ていない、と思う。

柔道の専門家から見れば、私がテレビで柔道を見ているのは、見ているうちに入らないだろう。
私たちはただ、勝った負けたと騒いでいるだけなのだろう。

とはいえ、騒いでもらわないとさびしいし、営業的に成り立たないのがつらいところだ。

柔道でもなんでも、「見る」というのは難しいことだと思う。
レオナルド・ダ・ビンチは、「目は精神よりだまされにくい」と言った。
「だまされやすい」だったかもしれない。
どっちでもよろしい。
レオナルド・ダ・ビンチが言った、というのが肝心だ。
どちらにせよ、よくわからんが、含蓄のある言葉のように思えるだろう。
そのどさくさにまぎれて、これから私が書くことも含蓄が深いような錯覚に陥る人があったらもうけものだ。

目と精神を分けるのはどうかと思う。
柔道を見るのは、「目」ではなく、「目+精神」なので、「精神」の方に柔道知識がないと、お粗末な見方になると思う。

競泳などは目では分からない。
1秒以下の差で、「金、銀、銅」は納得できない。
「1等、2等、3等」か、ズバリ、「58秒さん、58.05秒さん、58.07秒さん」でいいと思う。

古代オリンピックにメダルはない。
月桂冠が最高だ。
いや、最高は菊正宗だとか、ワシは白鶴、とか言う人は相手にしないでおこう。

メダルを考えたのはクーベルタンだ。
彼は、クーベルタン貴金属株式会社の社長で、当時の不況で貴金属価格の暴落に打撃を受けていた。
そこで思いついたのが、金、銀、銅のメダルだ。
オリンピックによって、貴金属投機熱が高まり、クーベルタンは危機を乗り切ることができた。

もう一つ理解できないのは、「記録の壁」という言葉だ。
これでは、記録を破るのを妨害するために、誰かが「乗り越えられない壁」を設けているようだ。
次々と「壁」は乗り越えられてきたではないか。

「記録ののれん」と言うべきだ。
「1分の壁」があるのではなくて、1分にのれんがかかっているのだ。
「1分の壁」を破るのではなくて、「1分ののれん」を誰かがかきわけて進む。
次に、「55秒ののれん」を誰かがかきわけて進む。

この方が日本語として正しい。
若草鹿之助商店日本語事業部では、国語審議会に、「記録ののれん」を採用するよう働きかけているが、のれんに腕押しで未だ採用されないのは遺憾である。