9月2日?
何じゃそれは、と思うでしょう。
伯母が遺した日記の昭和20年9月2日。
「米艦ミゾリー号にて降伏調印式。9月2日を忘れるな」
こう書き記した伯母は、臥薪嘗胆、打倒米英を肝に銘じ、無条件降伏という屈辱をばねにぴょんぴょん跳ね回ったりせず、その後の日記でこの件については一言も触れていないのは、なんとも言えずいい感じである。
9月2日は忘れても、9月3日は忘れられない。
妹の誕生日だ。
おめでとう、マーガレット。
昨日の「雑草」の色紙をほしいというメールを頂いた。
残念ながら、あの色紙は、「著名癒し系詩人チャリティバザール」に出品したので手元にない。
その方は、あの詩には、非常に深い意味があるように思うので、作者自身の解説が聞きたいと書いてこられた。
では、ここで「癒し系詩人」の手口じゃなかった、手法を説明しよう。
まず、「雑草は何のために生えているんだろう」であるが、これは疑問文のようで疑問文ではない。
「最近、目が疲れたり肩がこったりすることはありませんか」「心の底を打ち明けられる人がいますか」と同じで、あとで自分の言い分を押し付けるための準備である。
いきなりだと警戒する人も、疑問文の形にすると、自分で考えているような気になるものだ。
そして、質問されると、答えなければいけないような気になる。
答が一つあって、誰かが知っているような気になる。
答はないかもしれないとか、いくつも答えがあるかもしれないとは思わせないのが、学校教育の弱点だ。
その弱点をつく。
次に、「それはね、ぼくたちに」であるが、これは相手のふところに入り込む部分だ。
ここで私の不自然な作り笑いと、身の毛もよだつような猫なで声を感じ取ってほしい。
とくに「ね」が重要だ。
「ね」で、親しげに相手の肩に手を置く。
気持ち悪がって、「やめてください!」と払いのけようとするその手を逆にぐっとつかんで引き寄せながら、「ぼくたちに」と耳元でささやく。
「そのまんまでいいんだよ」とは、「どのまんま」なのかと考えるひまを与えず、「おしえるためなんだ」と断定的に終える。
普通の大人が、そのまんまで仕方ないと思うのは、身長くらいだろう。
体重、血圧となると、このまんまでは困る、何とかしたいと考える人が多い。
癒し系詩人は、人に色々考えさせないよう、色々考えているのである。