若草鹿之助の「今日はラッキー!」

日記です。孫観察、油絵、乗馬、おもしろくない映画の紹介など

癒し系詩人、雑草をうたう

我が家の裏に百坪ほどの空き地がある。

見事に雑草が生えそろっている。
鮮やかな美しい緑だ。
最近、その緑一色の中に、非常に細かいピンクが点々と見える。
秋の雑草だ。

雑草と呼ぶのが気の毒なくらいに美しい。
たぶん名前はあるのだろう。
ワレモコウとかスズメノカタビラとか。

近所に空き地はたくさんある。
どこにも雑草が生えている。
ほぼ一種類だけと思えるところもあるし、様々な雑草が入り混じったところもある。

不思議に思うのは、どこの雑草を見ても、批判の余地がないことだ。
人様の家の庭を見るとそうは行かない。
もうちょっと芝の手入れをしたらどうか、とか、庭木の格好があまりよくないとか、あの花はちょっと、とか思ってしまう。

私が見る限り、雑草はその点完璧だ。
少し伸びすぎだ、そろそろ刈った方がいいんじゃないか、とか、あそこには、ワレモコウよりもスズメノカタビラがにあうのに、とかいうことがない。

なぜだ。

私のような「癒し系詩人」にはいい題材だ。
一般には知られていないが、私は「癒し系詩人」である。

「癒し系詩人」の条件は、とにかく絵と字と詩がヘタなことだ。
もちろん、単にヘタではいけない。
絵も字も、生まれつきヘタなんだけれど、人並みに上手にかきたいなどという常識にとらわれていません的ヘタさでなければならない。

詩は、子供じみていることが必要だ。
もちろん、単に子供じみているだけではだめだ。
深く感じたり徹底的に考えぬいたりする能力に欠けているのではなく、そういうことが大人のしるしだという常識にとらわれていないだけです的幼稚さが必要だ。

私は、生まれつきの絵と字のヘタさと、思考能力の欠如を武器に、「癒し系詩人」になったのである。

「雑草」と題して色紙をかこう。
ぐしゃぐしゃと適当に緑の絵の具を塗る。

常識にとらわれないヘタな字で書く。

「雑草は何のためにはえているんだろう。
 それはね、ぼくたちに、
 そのまんまでいいんだよって
 おしえるためなんだ」

「癒し系詩人」にとって重要なテクニックである「強引な擬人化」を使ってみた。
こういう詩を読めば、私のことを「ほら系」と呼ぶ人はなくなるだろう。