裏の空き地の草むらで、虫の声が聞こえるようになった。
今朝、駅のホームで電車を待っていると、こおろぎの鳴き声が聞こえてきた。
意表をつかれる思いである。
向かいのホームの下は、線路から1メートルほど後退して、退避場所のようになっている。
その中の、油と鉄サビで赤茶けた石ころの中で鳴いているらしい。
「りりりり、りりりり」と、はっきりと聞こえる。
しばらく聞いていた私は、突然、理解した。
「私はここにいる。ここで生きている」
「了解。きみはそこにいる。そこで生きている」
このように理解し、応答できることは少ない。
極めてまれではあるが、草や木や、石の、「私はここにいる」という声を聞けることもある。
カラスがごみ袋をつついて、カアカア鳴いている。
「私はここにいる。こうして生きている」と訴えているんだな、とは思えない。
「あっちへ行け」と思ってしまう。
私の修行不足である。
天王寺公園の近くの路上で、カラオケに興じている人たちがいる。
かなりの年の男が、女装して演歌を歌いながらシナを作って踊っている。
「私はここにいる。こうして生きている」と訴えているとは思えない。
どこかおかしいんじゃないか、と思ってしまう。
これは、私の修行不足でもあるし、その男の修行不足でもある。
人間の場合、難しい。
父の姉である、伯母たちを看取った。
M伯母とF伯母は、晩年姉妹二人で暮らした。
早くに亡くなった母親の代わりとして、M伯母は、生涯独身であった妹を見守ってきた。
80を過ぎて、F伯母は体調を崩すことが多く、姉の介護を受けるようになった。
ある日私が訪れると、F伯母が、「おいしいものをください!」と言い続けていた。
M伯母は、「なにを食べさせても、まずいて言うんよ」と、困り果てていた。
また別の日、M伯母が私に嘆いた。
「おしめを換えてやる時、ちょっと腰を浮かしてくれたらいいのに、わざと足をつっぱって、換えにくくするの」
私は、伯母がわざと足を突っ張ることで、「私はここにいる。こうして生きている」と訴えているのだと思った。
伯母は、姉に「ありがとう」と言えなかったのだ。
線路のこおろぎが、赤茶けた石の中で鳴くように、伯母にはそれしかできなかったのだ。
姉は、「わかっている。お前はここにいる。こうして生きている」と答えていたのだ。