若草鹿之助の「今日はラッキー!」

日記です。孫観察、油絵、乗馬、おもしろくない映画の紹介など

矍鑠

昨日は、従兄夫妻が来訪。

母を見舞ってくれたのである。
従兄は、母の兄の息子である。
伯父は90を過ぎてなお「矍鑠」としているらしい。

「矍鑠」とは難しい字だ。
ワープロならばこそ私にも使える字だ。
「かくしゃく」と読む。
年老いてなお元気で盛んな様子を言う。

90を過ぎて「矍鑠」、というのは珍しい。
たいていの人は、90を過ぎると、「矍鑠」というより「くしゃくしゃ」だ。

自分の親が「老人」になるまでは、私は「矍鑠」というのは「若い」と言うことだと思っていた。
若い者と同じように元気なことだと思っていた。

しかし、違った。
あたりまえだ。
「年をとってなお元気で盛ん」というのは「若い」と言うことではなかった。

私の父も、80を過ぎてなお矍鑠としていた。
立派だしありがたいことではあったが、これはこれでいささか困った時もあった。

「矍鑠」の人は、人生を、まあ立派に生き抜いてきた人だ。
世の中を渡っていくにあたって、判断や行動にたいして誤りがなかった人だ。
その自信が「矍鑠」の重要な構成要素になっているのだから、「矍鑠」の人には「自信」というものが備わっているのは当然だ。
自分のすることなすことに全然自信がなくて、ふらふらしているけれど矍鑠としているというのはない。

しかし、その「自信」も「社会人」である間は、「社会」で試されれる。
「自信」を失いそうになっても「虚勢」で乗り切らねばならない。
世の中を渡っていくには、「自信」と「虚勢」の混合物で作った鎧兜に身を固める必要がある。

年をとると、「世の中」から一歩、二歩と退く。
試されることがなくなる。
「試されることのない鎧兜」で身を固めた「矍鑠」の人は手ごわい。
こわいものなしだ。

昔、「電力の鬼」と言われた松永安左衛門氏が、90いくつかの時、何かのインタビューに答えた言葉に驚いたことがある。
「この年になると、目上の人間や威張っていたやつがみんな死んでしまってうれしい」

典型的「矍鑠の人」だ。

私は「矍鑠の人」にはなれそうにない。
80を過ぎてなお矍鑠、といわれることはないだろう。
せいぜい、80を過ぎてなおイケメン、と言われるのが関の山だ。
恥ずかしい話だ。