前に書いた、朝の駅でタバコの吸殻を拾う女の人であるが、今も続けておられる。
改札口付近だけでなく、かなり向こうの方まで拾いに行っている。
町をキレイに、ということかもしれないが、「ちょっとおかしい」と思ってしまう。
この人の身辺で、何かあったのだろうと邪推する。
今朝の朝日新聞で、マツダの社長が取り上げられていた。
この人が工場長の時、車の欠陥が見つかり、フォード出身の社長に報告に行った。
報告してから、「私を殴ってくださって結構です」と言って、めがねをはずして顔を差し出した。
社長は、ゲラゲラ笑って、「なぜ君を殴る。感謝したいくらいだ」と言ったそうだ。
朝日新聞に問う。
何が言いたい。
「巨人の星」と「フーテンの寅さん」がいっしょになったような話だ。
「巨人の寅さん」だ。
「読売タイガース」だ。
違和感を感じる。
昨日、銀行で週刊誌を読んでいたら、毎日新聞の論説委員が、「ケータイ電話」を徹底的に批判していた。
この人は、ケータイを持っていない。
主義として持っていないのだ。
私も持っていないが、もちろん主義なんかではない。
何となく持っていないだけだ。
私が、「ケータイ」の便利さを実感したのは、何年か前のヤマハの合歓の郷での合宿の時だ。
広い合歓の郷で、若者達が互いに、「今どこ?」「こっちへ来て」などと連絡を取り合っていた。
遠く離れていても瞬時に意思の疎通ができるという、人類の夢の一つが実現した!と非常に感動した。
しかし、持つ気にはならなかった。
遠く離れた人と瞬時に意思の疎通を図る必要がないからだ。
それに、回りの誰かが持っているから、それを使えばいい。
ドコモのケータイはさらにおトクか知らんが、人のを使った方がさらにさらにおトクだ。
この毎日新聞の論説委員は、堺正章さんのことを書いていた。
堺さんはクラシックカーが好きだそうだ。
「それなのに」と論説委員は力む。
「堺さんは、ケータイを持っているという。矛盾しているではないか」
どこが?
この人は、ケータイの害毒について、箇条書きにして詳しく書いていたが、何か忘れた。
この人の言っていることに意味はない。
ケータイを持っていないことが、特にすばらしいことではないということは、ケータイを持っていないところの、この人や私を見ればすぐわかることだ。