いつも頭の中で「いいこと」を考えていられたら幸せだろう。
「いいこと」と言っても、「世界人類が幸福になりますように」というようなことではない。
「うれしかったこと」と言えばいいのか。
母は、完全にぼけきっていると言える。
その母が時々、ニコニコする。
きのうも、無表情な顔が時々微笑んだ。
「いいこと」が頭に浮かんだのかなと思う。
顔の筋肉が、そのように動いただけなのかもしれない。
母がニコニコするとうれしい。
たまにだからうれしいのかもしれない。
ずーっとニコニコしていたらあまりうれしくないかもしれん。
げらげら笑い通しだったら困るかもしれない。
時々ニコニコしてほしいと願う贅沢な息子だ。
人間は時々「いいこと」を頭に浮かべてニコニコする必要がある。
ニコニコのつもりがニヤニヤになってしまう人もいるから、注意が必要だ。
小学校時代の野球は、私にとって完全にいいことのひとつだ。
誰だったか、プロ野球選手がやめてから、野球は小さいころからずっとやらされていた感じだ、と言っていたが、ちょっと気の毒である。
50年近く前の、私たちの「野球」は、「ソフトボール」と混ざった変則的なものだった。
キャッチャーもいなければ、ストライクもボールもない。
打つか、空振り三振するまで投球が続く。
審判もなしで、「判定」でもめることなくできたのは今思うと少し不思議だ。
いい加減にやっていたわけではなく、皆カンカンになっていたのだが。
私は、うまくもなく下手でもなかったと思う。
私に限らずみんなそうだった。
私にとって特別「いいこと」が6年生のある日におきた。
近所のいつものメンバーで、小学校の校庭で野球をしていたときだ。
その日、私が打つたびに、球はライナーで左中間のど真ん中か、右中間のど真ん中に飛んだのだ。
見事なライナーで見事にど真ん中だ。
「よっちゃん」があきれて、「どないしたらあんなうまいこと打てるねん?」と言った。
布施市立第四小学校の校庭で私にこう言った時の「よっちゃん」の顔を絶対忘れない。
忘れてたまるか。
ぼけた私がニコニコすることがあったら、このときのことが頭に浮かんだのだと思って間違いない。