若草鹿之助の「今日はラッキー!」

日記です。孫観察、油絵、乗馬、おもしろくない映画の紹介など

思い出

亡くなったN君の奥さんに、彼とのいろんな思い出を書いて送った。

亡くなった人の思い出を、残された人に送るのはこれで四度目だ。
最初は三十年近く前だ。
高校の美術部の後輩が自殺したと、彼のお姉さんから電話がかかった。

「弟は人生の敗北者です」とお姉さんは言った。
彼とは一年間だけの付き合いだったので、よく知らなかったが、彼にとってもお姉さんにとっても、「人生の敗北者」はちょっと、と思って、私が知っている彼のことを手紙に書いた。

それ以来、自分が知っているその人のことを、残された人に伝えるのが義務みたいに思えてならない。
「書いて知らせなければならない」という感じだ。

なぜだろうか。

うまく説明できないが、「借りているものを返す」という感じに近いように思う。
たとえば、N君は、私に「思い出」を残して行ってしまった。
生きている間は、お互い様、という感じだが、彼が死んだ今となっては、私が「思い出」をもらってしまったようなものだ。

「ハイ」と手渡された箱を持って、呆然とたたずむ私に見えるのは去って行くN君の後姿だ。
私だけのものではなく、彼と私のものであるはずなのに、私だけが持っている。

返す、というのもヘンだ。
利息を払う、というともっとヘンだ。

私たちは、周囲の人に「負うところ大」なのであろう。
自分が自分になるにあたって、自分が自分であり続けるにあたって「負うところ大」なのであるが、ボーっとしていて気づくことがないので、「なくてぞ人の」とか「墓に布団は着せられず」ということになるのだろう。

昨日、私の留守にN君の奥さんから、手紙がついたと電話があった。
家内がいろいろ話を聞いた。
奥さんは、「本当にいい主人で、すべて頼り切っていました」と言われたそうだ。

私は、結婚式での印象から、「しっかりものの奥さんと、のほほんとしたN君」の家庭を想像していたので、奥さんは本当に頭のいい人なのだと思った。

相当鈍感な人間でも、人の欠点にはすぐ気づくが、頭が良くないと、いいところを認めて信頼することはできない。

私をほめてくれる人は、頭のいい人だ。