若草鹿之助の「今日はラッキー!」

日記です。孫観察、油絵、乗馬、おもしろくない映画の紹介など

日本語

小池清治著「日本語はいかに作られたか」

ふつう、こういうことは考えませんね。
面白くてためになる本だ。

しゃべるのは勝手にしゃべってたのだろうから、書く日本語の話だ。
今私がこういう文章を書けるのは、太安万侶紀貫之夏目漱石のおかげなのだ。

漱石は、自分は半分西洋人だ、と言っていたらしい。
実際、漱石のメモ書きなどには、英語がたくさん使ってある。
英語をそのまま使わないと、思っていることが書けなかったのだろう。
漱石のおかげで、私たちは、自分が半分西洋人だと思わずにすんでいる。
太安万侶紀貫之のおかげで、私たちは、自分が半分中国人だと思わずにすんでいる。

太安万侶以前の人たちは、漢字というものを知っていたが、それは中国語を書くためのものであって、まさか漢字で日本語が書けるとは思はなかっただろうと小池先生は言う。
漢字を使うのが当たり前になっているから、こういう発想は新鮮に思える。

イギリス人が漢字しか知らなくて、英語を漢字で書こうとしたとする。
「I am a boy.」→「愛亜無阿帽意」
漢字の発音を利用するとこうなる。
意味を利用すると、「我也一少年」
これを、「アイアムアボーイ」と読むことにする。
「山」を「やま」と読むことにするのと同じだ。
「我」を「アイ」と読むのだ。

漢字かな混じり文的になると
「我亜無一少年」と書いて「アイアムアボーイ」と読む。
この辺から頭がこんがらかってくる。

中国で日本語を教えている先生が書いていた。
「百貨店と言うのはデパートメントストアのことです」と教える。
すると、学生たちは、日本の新聞に「百貨店」という文字があると、「デパートメントストア」と読んでしまうのだ。

私たちは、とんでもなくこんがらかった言語生活を営んでいるようだ。

玄宗皇帝が楊貴妃にうつつをぬかさず世界制服の野望に燃えて漢字圏を広げてくれたら私たちはもう少し楽が出来たと思う。
「聖書」はお経みたいに訳のわからんものになっていた。
ダンテの「神曲」は漢詩だ。
ルネサンスでは、「論語」が再評価され、ダビンチの「山水画」を楽しめた。
ミケランジェロ東大寺に招かれて、運慶、快慶をしのぐ仁王像を作る。

ロミオとジュリエットが、「ニイハオ!」と叫んで抱き合うなどというのは、「日本語はいかに作られたか」という本とまったく関係がない。