『元禄世間咄風聞集』という本がある。
これは、元禄時代に、どこかの大名の家臣が、噂話好きの主人のために集めたどうでもいいような話をまとめたものである。
この、どうでもいいような話をしたり聞いたりしていたのは、当時のエリートである、大名や高級旗本である。
この本を編集した人は、こういうろくでもない話を当時のエリートたちが喜んでいたと言うことがわかるところにこの本の史料的価値がある、と書いている。
たとえばこんな話。
溝口近左衛門という侍に男の子が生まれた。
奥さんの父親である馬場三郎左衛門に、名前をつけてほしいと頼んだ。
馬場三郎左衛門という人は、非常に固い人だったので、そのような大役は辞退すると言って断った。
しかし、溝口近左衛門は、是非にと頼み込んだ。
それでは、ということで、馬場三郎左衛門はあれこれ考えて、「父親である近左衛門殿の『近』と、祖父であるこの三郎左衛門の『三郎』をとって、『近三郎』となされませ」と言った。
一門の人々は、「なるほど!さすがご隠居」とうなずきあったのであった。
しかし、溝口近左衛門という人も、馬場三郎左衛門に輪をかけた非常に固い人なのであった。
「なんと!『近三郎』!滅相もない!」
「むむ、『近三郎』ではお気に召しませぬか」
「お気に召すも召さぬもござりませぬ!私の『近』が、お父上の『三郎』の上に来ているではござりませぬか!とんでもない話でござりまする。『近三郎』だけはどうかご勘弁願います」と言って聞かなかった。
困り果てた馬場三郎左衛門は、考えに考えた挙句、「それでは、『三郎近』にいたしましょう」
と言うようなわけで、この男の子は、「溝口三郎近」という名前になったのである。