若草鹿之助の「今日はラッキー!」

日記です。孫観察、油絵、乗馬、おもしろくない映画の紹介など

南無大師金剛遍照

昨日、母のいる施設に行くと、一昨日Yさんが亡くなられたとのことであった。
95歳。
要介護老人施設であるから、いつ誰が亡くなってもおかしくない。
驚きはしないし、悲しくもないが、やはりさびしい。

Yさんは、いまどき珍しい、どこから見ても、典型的日本の田舎のおばあちゃんであった。
何かしてもらうたびに、右手を顔の前に上げて、拝むように「ありがとうございます」と言われた。

車椅子に座って、「南無大師金剛遍照。ありがたい、ごもったいない」と繰り返しておられたのをここで書いたのはいつのことかと検索すると、去年の四月だ。
あれから一年か。
Yさんは、特に変な言動はなかった。三時過ぎくらいから、「今何時ごろですか?」と繰り返し尋ねられるくらいで、自分から発言されることは少なかった。
ぼけていると言うより、「無念無想」という境地に近いように思えた。

表情でそういう感じがするのである。
Yさんと同じような状態の方でも、表情が険しいと、「無念無想」という感じがしない。
「腹に一物」という気がする。
まともな考えはないのに、雑念の残りかすみたいなものだけはあるな、という感じだ。

新顔の女性Sさんは、90歳くらいだろう。
完全にぼけておられるが、元気なときの状態のままぼけているという印象だ。
立派な奥さん、という感じで、堂々とした態度で、色々話をされる。
言葉が支離滅裂にあふれ出る。
知的な、ユーモアのある方だったのだろうな、と思う。

支離滅裂な中にも、私には、Sさんの知性とユーモアが感じ取れるのである。
これは、私に知性とユーモアを感じ取る力があるからか、単に私が支離滅裂な人間であるからか、むつかしいところだ。

この施設で、入居者たちを見ていて思うのは、ぼけ方も人それぞれだということだ。
ぼけきったとき、穏やかな表情で黙って座っていられるようになるには、どのような修業が必要なのか、研究しなければならん。