若草鹿之助の「今日はラッキー!」

日記です。孫観察、油絵、乗馬、おもしろくない映画の紹介など

節談説教(ふしだんせっきょう)

家内が「節談説教」のレコードを聞いていた。
私が三十年ほど前に買ったものだ。
浄土真宗の「説教」の一種で、教義について語って聞かせる言葉に、一部「節」がつく。

俳優の小沢昭一さんが、「日本の芸能の源流を探る」なかで、「節談説教」を「発見」した。
今に残る話芸、落語、講談、浪曲などは、すべて「説教」から出てきたものだそうだ。お坊さんは、仏教の尊さ、自分のお寺のあり難さを説いて聞かせる。聞き手の興味をひくために、笑わせたり泣かせたりする。感動的な場面では「節」をつけて歌う。あり難さから離れると、「話芸:芸能」になる。

今「説教」と言うと、「面白くないもの」という意味だが、昔の「いい説教」と言うのはありがたい話を笑いと涙で聞かせるものだったのだ。
売れっ子の説教僧が近くの寺に来ると、寄席は客が入らなかったそうだ。

「説教」をしてから、カネを集める。感動させたほうがカネはたくさん集まる。「説教」は生活がかかっていた。カネを集める条件は、「一、声。二、節。三、男」と言われたそうだ。説教僧も「イケメン」が強かったようだ。

説教に感動すると、聴衆の間から自然発生的に「南無阿弥陀仏」という念仏が湧き上がる。説教を受けて唱える念仏だから「受け念仏」という。小沢さんは、芸能の世界で「今日はウケた」と言うのは、ここからきているのだろうと言っている。

三十年前、全国で十人ほどの説教僧しかいなかったというのだから、今や滅び去ったものかも知れない。
「節談説教」というのは、鍛え上げられた「芸」で、面白いとは思うが、今の時代に生き残れるものではないだろう。

やはり三十年程前、アメリカの雑誌「タイム」が、「説教:滅び行く芸術」という特集をしていた。「いい説教」ができる牧師が減っているという記事だった。
減っている理由の一つに、説教の名人キング牧師をあげていた。キング牧師が「教会にこもって説教をするより社会に出よう!」と説教したから、説教に力を入れる牧師が減ったというのだ。
確かにキング牧師の説教はすごい。キング牧師のワシントン演説を初めてラジオで聞いたとき、映画の一シーンだと思った。それほど、きまっていて感動的だった。

口から出る言葉は大変な力を発揮して人を動かす。
大変な力を発揮させるには大変な努力が必要だから、ヘンな気を起こさず、口からでまかせを言っていよう。