若草鹿之助の「今日はラッキー!」

日記です。孫観察、油絵、乗馬、おもしろくない映画の紹介など

忘れられたり忘れたり

きのう家内が近鉄の駅で息子の友人T君を見かけた。
携帯電話でしゃべっている顔を見たら、T君も見返したが家内とはまったく気づいていない様子だった。
「T君!」と声をかけたらはっと気づいたそうだ。

一週間ほど前近鉄の駅を歩いている私に、手に下げたバッグをぶつけてきた若者がいた。
顔を見たが知らない人なので通り過ぎようとしたらまたぶつける。
なんだ、と思った瞬間、ヤマハのベース科のN先生だと気づいた。

不思議なものだと思う。

数日前やはり近鉄の駅で家内は「先生!」と声をかけられた。
見知らぬ中年女性が家内を見つめてはらはらと涙をこぼした。

家内は大学を出てすぐ高校の教師をしていたが、そのときの教え子だった。
担任をしていたわけではないので家内は覚えていなかったが、その子(?)は覚えていてくれたのだ。

覚えていてもらうとうれしいし、忘れられるのはさびしいだろう。
母のボケが始まった頃、父は私に、母がいつか私のことも忘れてしまうだろうと言った。
私は、そんなことは絶対ありえないと確信していた。

母が私を忘れたときさびしくはなかった。
母親がぼけるというのは、自分が忘れられたことをさびしがっていられるような呑気な状況ではない。

母がすべて今までどおりで私のことだけ忘れたのなら、さびしいとか情けないとか思っただろう。
全体が狂っていくなかでは、私を覚えていようがいまいがどうでもいいことであった。

忘れられるのもさびしいが忘れるのもさびしい。

60年間の日記を遺した伯母は、五年生のときに母親をなくしている。
葬式のとき、泣いてはいけないと思ってこらえていた伯母を見て、おとなたちは幼いのでそれほど悲しんでいないと判断したようだ。

しかし、伯母の悲しみは深く、町を歩いていて母親に似た人を見かけてあとを追いかけたこともあるそうだ。
9月17日の命日には、日記に「母が生きていたら・・・」というようなことをよく書いている。

昭和26年、42歳のときの日記に、「母の命日を忘れていた。淋しい」という記事がある。
読んでいて、母親を早くになくした淋しさと、命日を忘れてしまった淋しさがいっしょになって胸に迫ったが、私は伯母に言いたかった。

伯母さん、お母さんは命日を忘れられて少しほっとしていると思いますよ。