若草鹿之助の「今日はラッキー!」

日記です。孫観察、油絵、乗馬、おもしろくない映画の紹介など

「子供のユーモア感覚を育てる」

新聞の『児童心理』という雑誌の広告で見た織田正吉さんの文章のタイトルだ。

意表をつかれた気がする。
「学力を育てる」なら当たり前だが、「ユーモア感覚を育てる」という発想が新鮮である。

しかし、「学力とは何か」というのも難しいが、「ユーモア感覚」はなお難しい。
「学力」は、「試験でいい点を取れる力」としてもいい。
そう決めても、私は今後試験を受けることはなさそうだから、「学力不足」を苦にすることはないだろう。

「ユーモア感覚」はわかったようでわかりにくい。

漫才を見てゲラゲラ笑うのはユーモア感覚があると言えるのだろうか。
「育てる」とは、もっと笑うようにすることになる。
「ここで笑えるようにならないと東大はムリだぞ!ビデオを何度も見て、来週までに笑えるようになっておきなさい!」
ちがうな。

人を笑わせるようになることだろうか。
私のように、ヘンな顔をして人を笑わせるのは、ユーモア感覚があると言えるだろうか。
言えんな。

私の父は「ユーモア感覚」があった方で、母はない方だと思う。
父と私が、夕食のときなどに言い合う冗談は母には通じないことが多かった。
父は母に、「お前はユーモア感覚がない」と言ったが、母は、「そんなのはユーモアじゃない!悪ふざけ!」と手厳しかった。

私は、父のユーモア感覚も好きだったし、母のユーモア感覚のなさも好きだった。
ユーモア感覚のなさを楽しむのはユーモア感覚だ。

いろんなことを楽しむ力がユーモア感覚だろうか。
人がいじめられているのを見て楽しんではダメだ。

手元の国語辞典を見ると、ユーモアは「上品なおかしみ」と書いてある。
とすると、子供にユーモア感覚を期待することはできないように思う。
特に幼稚園くらいの男の子は「下品なおかしみ」が好きで、年中、うんちとかおしっことか言って喜んでいる。

「ユーモア感覚」について考えるのは面白くないですな。
どういうことが書いてあるのか読んでみよう。