最近、朝の楽しみは、私が降りる駅で見かける小学一年生の男の子だ。
駅まで、お母さんが自転車で送ってくる。
背の高いお母さんだ。
一年生かどうか確認したわけではないが、身体の小ささと制服の新しさからして間違いないだろう。
制帽とコートがとても大きく感じられる。
ランドセルの上からコートを着ているから、ふくれあがって、てるてる坊主みたいだ。
おまけにこの小学校は、たえず「お道具入れ」だかなんだか知らんが、大きな袋その他の荷物を持たせる。
着ぶくれした男の子が大きな荷物を持っている姿は、見ている分にはかわいい。
学校としては、もう少し考えてやるべきだと思う。
お母さんは、エスカレーターで上っていく男の子をじっと見送っている。
男の子が、長いエスカレーターの中ほどまで上がると大きな声で呼びかける。
「だいじょうぶ!?持てる?持とか?」
いつも声をかけるのであるが、持つ気はなさそうに聞こえる。
心がこもっていないというのでもない。
どうせなら、いっしょにエスカレーターで改札口まで行ってやればいいと思うのであるが、声がそれほど真剣でないのと同様、顔も心配そうではない。
心配しているような面白がっているような、なんとも言えない複雑微妙な表情である。
いずれにせよ、「かわいい!」と思っていることだけはまちがいない。
はじめのうち私は、この人が息子を見る表情が複雑微妙だと思っていたのだが、そのうち、そうではないと気づいた。
この人は、元来、今にも笑い出しそうな顔なのである。
泣き出しそうな顔と言ってもいい。
あるいは、にっこり笑った後の顔と言ってもいいし、涙をこぼした後の顔と言ってもいい。
要するになんとも言えん顔だ。
仏像の美に通ずるものがある。
今まさに微笑まんとするかのごとく涙せんとするかのごとく息子を見送るこのお母さんに向かって手を合わせても別におかしくないんじゃないでしょうか。