若草鹿之助の「今日はラッキー!」

日記です。孫観察、油絵、乗馬、おもしろくない映画の紹介など

まーちゃん

「思い出す」というのは不思議な機能だ。
思い出そうとしたわけでもないのにふと思い出す。

「まーちゃん」のことを思い出した。
前にも書いたことがある。
幼い私が母の手から世の中に第一歩を踏み出したとき世界を支配していた人だ。
何歳か違っただけだろうが、5、6歳違えば雲の上の人だ。
おぼえていることはほとんどないのに思い出す。

「まーちゃん」たちの世代には、私たちチビが名前を聞いただけでふるえあがるようなワルもいたのである。
そういう「こわいおにいちゃん」がいても「まーちゃん」がいれば安心だった。
私の幼児期における精神的安定に大いに寄与していただいたので感謝状でも贈呈したいところであるが、ご本人はびっくりするであろう。

その後、私たちが小学校4年生になり5年生になり、世界をになう中堅として台頭していったとき、まーちゃんたちはいつの間にか姿を消していた。
かつてあれほど勢威をふるった集団が忽然と姿を消すというのは実に不思議な話であるが、私は彼らがどこへ行ったかまったく気にかけることもなく、わが世の春を謳歌していたのであった。

今にして思えば、彼らは中学生になったのであった。
時空を越えて別次元に入って行ったのである。
その後彼らは就職したのであろう。
もうひとつ違う次元に入って行ったのだ。

中学生になっても私たちと遊んでくれた奇特な人がいる。
「よっちゃん」だ。
よっちゃんは「良い人」であった。
いっしょにちゃんばらをしていると、よっちゃんのお母さんが苦々しげな顔で呼びにきたものだ。
よっちゃんが私たちと楽しく遊んでいるのをお母さんがなぜ嫌がるのか理解に苦しんだ。

まーちゃんは命の恩人だ。
「海戦ごっこ」の「スイライクチク」をしているとき、巨大戦艦に追いかけられて撃沈寸前の私を小脇に抱えて激走、基地である電柱まで運んでくれた。

もう一つ。
私が一年生か二年生のとき、ろくに野球も知らないのにピッチャーをさせられたことがある。
人数が足りなくてピッチングマシンのかわりだったのだろう。

ピッチャーフライがあがった。
これは私がとらなければいけないのか?
ポーンと上がったボールを呆然と見つめていたら、三塁を守っていたまーちゃんが猛然とダッシュしてダイビングキャッチ!

普段こういうことを忘れている私は、恩知らずと言われても仕方がない。