小学校から英語を教えようという動きに対して、日本語教育こそ重要だという意見がある。
小学生の脳は、英語を入れるくらいの余裕はありそうだと思うが、義務教育ですべきかどうかはよくわからん。
慎重に検討したいと思うが、そんな悠長なことを言ってられるのは日本くらいかもしれない。
先日、NHKテレビで、アジアの国々の子供向けテレビドラマを放映していた。
中国の男の子が、田舎から都会の小学校に転校してきて、英語の時間があるのに驚いていた。
ブータンのドラマに出てきた小学校は、なんと全部英語で授業していた。
昔、インド人が、日本の学校では化学や物理の授業も日本語ですると聞いて驚いていた。
英語でするんでしょうな。
「酸素」とか「万有引力」とかいうヒンディ語(?)はないのだろう。
日本も、明治のはじめの高等教育は外国人教師が外国語で行った。
自国語ですべての授業をできる国のほうが少ないのかもしれない。
日本語教育が大事だというのはわかる。
さて私はどんな日本語教育を受けたのか。
漢字をたくさん書かされた。
これはいやだった。
娘や息子が、宿題で同じ字を十も二十も書いているのを見るたび、自分がいやだったことを思い出して気の毒になった。
作文は好きだったが、「この言葉を使って短文を作れ」というのはきらいだった。
五年生のとき、「『おっくう』という言葉を使って短文を作れ」という宿題が出た。
岡田君が発表したのを覚えている。
「寝る前、兄が小便に行けと言ったがおっくうなので行かなかった」
これを五十年覚えているのが、私の脳のすばらしいところというか欠陥というか、まあ不思議ですね。
やはり五年生のとき、秋の遠足の後、国語の時間に作文を書いた。
「秋の遠足」という題で書いたのだが、職員室の黒板に「秋季校外学習」と書いてあったのを思い出した。
そっちのほうがかっこいいと思って書き直したら、岡田君がそれを見てあわてて自分の題も「秋季校外学習」となおした。
大変優越感を感じた。
これを五十年(以下同文)。
日本語教育が大事なのはわかるが、自分がどんな日本語教育を受けたのかよくわからないという話である。