漫才ブームの頃はどの漫才も面白かったような気がするが、島田洋七も面白かった。
幼い頃父をなくし女手一つで育ったのだが、小学生のとき佐賀のばあちゃんに預けられる。とんでもなく貧乏であったが、ばあちゃんとの暮らしは明るく楽しかった。「がばい」というのは「すごい」という意味らしい。
私はこのテの話が好きだ。古今亭志ん生『びんぼう自慢』。そのものずばりである。
貧乏だが明るく楽しく暮らしたという話が嫌いな人はないだろう。
堀江さんや村上さんの、「カネをガバガバもうけて何が悪い」という話は嫌いな人が多いだろう。
この本も楽しい話題満載だが、島田さんは話すほうが向いている。こういう素材は本にして出すのが普通だが、「トークショウ」がいいのではないか。
「貧しい子供時代」というと、無着成恭編『山彦学校』を思い出す。
戦後間もない頃、山形の貧しい山村に赴任した無着先生は、生徒達に自分達の生活を見つめ、文章にすることを教える。
大変なことを教えたものだが、学校まで休まされて、親子そろって死に物狂いで働いても充分食べることもできない村の暮らしをじっと見つめてしまうと、貧乏だけど明るく楽しくとはいかないようだ。
がばい先生のほうがよかったかもしれない。
佐賀でなく山形のがばいばあちゃんに預けられたらどうだったか。
貧しい島田少年は、運動会にろくな弁当を持っていけなかったが、毎年先生が豪華弁当と交換してくれた。心あたたまる話だが、無着先生には無理だ。
学校中の生徒に豪華弁当を用意しなければならない。
それにしても、よくこんな貧しいばあちゃんに息子を預けたと思う。がばいかあちゃんだと思うが、この本の中ではあくまでかあちゃんは美しい。
「まぶたの母」が美しいのはわかるが、島田少年の前にたまに現れる「現実の母」も美しいのは、島田少年の性格がよほど良いからか。
島田さんの説教は蛇足だ。
幸せはカネじゃない、心の持ち方しだいだ、みんな道を間違えるな。
この本を読んで私みたいにウルウルするだけの者もいるし、そういうメッセージを読み取れる賢い読者もいる。
読者を信じなさい。
この本は行間が広い。読みやすいのを通りこして「水増し疑惑」が生じる。
普通の文庫本なみの行間にすれば、ページ数は三分の二ですむだろう。
ばあちゃんなら怒るよ。
「紙がもったいなか!」