「捨てたものではない」というのはよく見かける表現だが、自分で使ったことはないように思う。
朝日新聞書評欄。
前川佐重郎という人が、阿川弘之の随筆を取り上げてほめていた。
色々ほめて、最後に、「日本語もまだまだ捨てたものではない」
なんかヘンだな、と思う。
若者の立派な言動を見て、「日本も捨てたものじゃない」という人がいる。
日本に絶望して日本を捨てようとしていたのだろうか。
日本も日本語も、捨てるには大きすぎるのではないか。
というか、捨てられるようなものなのかという疑問が浮かぶ。
「阿川弘之はもうダメだと思っていたが、今度の本を読むと、まだまだ捨てたものではない」
これならわかる。
前川さんは、日本語はもうダメだと思っていたのか。
日本語で書いてあるものをいろいろ読んでも、何をいっているのかさっぱりわからない。
自分の思いを日本語で書こうとしても、どうにも表現することができない。
楽しい気持ちも悲しい気持ちも、日本語では表わせない。
そして、致命的なことに、日本語では駄洒落もいえない。
日本語はもうダメだ!
自暴自棄になって当然だ。
駄洒落がいえないとなると、私だってやけくそになる。
前川さんは、こんなことを考えていたのだろうか。
そこに、救世主のごとく阿川さんが現れたのか。
「捨てたものではない」という言いかたが、えらそうである。
前川さんは歌人だそうだが、歌人が、「日本語もまだまだ捨てたものではない」などといっていいのか。
などとカタイことはいわず、前川さんが阿川さんの本をほめたのだ、と理解すればいいのだろう。
口から出まかせで、何気なく使っただけだという結論に達するのに意外に時間がかかってしまったが、たまにこういう暇つぶしの材料が見つかるので、朝日新聞の書評欄も、捨てたものではない。