「芝哲」とはなにか。
「芝生の哲学」の略である。
この十数年、庭の芝生を見つめてきた。
芝生を見つめることによって、いろいろなことがわかる。
頼みもしないのに雑草が生える。
ほったらかしにしても雑草は育つ。
除草剤をまくと雑草は生えない。
こういうことがわかる。
しかし、芝哲は時間がかかる。
十五年で十五回の経験しかできない。
私は、芝哲のベテランとはいえない。
今年、初めての経験をした。
庭の東に接して、隣のガレージがあった。
その陰になって、我が家の庭の東の一部は日当たりが悪かった。
と言っても、午前中当たらないだけなのだが。
その部分の芝は、毎年、情けない状態であった。
はげちょろで元気がない。
日当たりが悪いから仕方がない、となかばあきらめてはいるが、なんとかならんかと思って、同じように手入れはする。
しかし、どうがんばっても、その部分は、はっきりと見劣りがする。
さて、昨年、隣の家が取り壊された。
ガレージもなくなった。
なんと、今まで情けなかったその部分に、今年は勢い良く見事に芝がはえそろった。
現金なものだ。
手のひらを返したようである。
太陽の光が当たるだけで、これほどまでにちがうのか。
太陽光の威力をはっきりと知った私は、昇り来る太陽、沈み行く太陽に自然に手を合わせるようになった。
天照大神をはじめ、古来、世界各地に太陽神崇拝がある。
太陽神崇拝を始めた人は、きっと隣のガレージがなくなって、太陽光の威力を実感した人にちがいない。