一昨日、家内と墓参りに行った。
十数年前に開かれた広大な墓地である。今でも新しい区画を売り出している。
「イングリッシュガーデン風墓地」というのを宣伝していたこともある。
今回、「プレミアム墓地」というのができていた。
リッチでセレブな気分で、迷わず成仏できそうではないか。よしっ!と購入意欲をそそられたが、考えてみたらウチは神道なので、成仏は関係ない。
神道に成仏なし、神道に彼岸なし、神道にお盆なし。
神道は気楽でよろしい、と思ってるのは私だけか?
しかし、墓地業界も、成長産業とはいえたいへんですね。
我が家の墓には、真新しい花がいけられていた。前の日に妹が来たようだ。
この墓地には、我が家の墓と、九州と東京から持ってきた父の姉二人の墓と、富山から持ってきた父の母親の実家の墓がある。なぜ四つも墓があるのか。複雑な家庭の事情、というほどでもないが、まあ、いろいろあります。
ひとつは神道、ひとつはキリスト教、ふたつが仏教。これには、複雑な事情も、激しい宗教闘争もない。たまたまそうなっただけです。
我が家の墓は、もとは信貴山にあった。昭和16年、父の父が亡くなった時、父が買った。ケーブルカーで登る、非常に不便な場所にある。なぜこんな墓地を買ったのか不思議であった。
父は、自分で買ったものの、あまりに不便なので、自分が入ったら、息子(私)や娘(私の妹)が大変だろうと、今の墓地に移した。
今の墓地なら、家から車ですぐだ。便利なので、しょっちゅう行くかというと行かない。墓はコンビニではない。
この墓を買うとき、父といっしょに来た。どこにしようかと、広大な墓地を二人で歩いた。少し歩くと、父はふうふう言っていた。肌寒い日で、雨がしとしと降っていた。
父が、近いうちに自分が入ることになる墓を選んでいるのだと思うと、なんとなくヘンテコなしみじみした気分であった。