叔父の三回忌。
去年と同じ、真言宗の若いお坊さんだったが、成長ぶりがうかがえて好感が持てた。
字がうまくなっていたのだ。(2007年2月12日分を御参照下さい)
卒塔婆みたいな小さな板に、梵字と叔父の戒名が書いてある。
去年、このお坊さんは、「私は梵字が下手です」と言った。
正直でよろしいと言いたいところだが、遺憾ながら、梵字だけでなく漢字も下手だった。
「梵字も漢字も下手です」と言うべきだろう。
今年の梵字は立派なものだと思った。
まあ、梵字なんて、うまいか下手か、そうわかるもんじゃない。
去年、私がひと目見て、下手な梵字だ!と感じたのは、よほどのことである。
梵字を書き始めて三日目くらいだったのではないか。
今年の漢字であるが、うまくなったとは言え、達筆には程遠い。
漢字の出来からすると、立派に見える梵字も、まだまだなのかもしれない。
いずれにせよ、努力のあとがはっきり見えるのは評価できる。
新川登亀男『漢字文化の成り立ちと展開』
奈良時代には、「漢字」という言葉の用例はないそうだ。
平安時代もはじめの方にはない。
「字」というと、「漢字」しかなかったからだ。
わざわざ、「漢」の「字」などと、区別することはない。
日本人で、自分たちが使ってるのは「漢」の「字」だ、最初に気づいたのは、空海らしい。
空海のどこがえらいのかと思ってきたが、この辺がえらいのですね。
空海は、お経は梵字で書いてあることを知った。
梵字を漢字に変えたものが日本に入ってきている。
梵字を勉強しよう!
梵字は、形もヘンテコリンだが、発音もヘンテコリンのようだ。
それを操る人達は、鳥や獣の言葉も解する恐るべき超能力者とみなされた、というか、煙に巻いてそう思わせたというべきか。
梵字を勉強するのはえらいと思うが、人を煙に巻くのはよくないと思う。
当時でも、合理的な考えをする儒学者などは、梵字梵語を特別視することに批判的だった。
梵字は、古代文字のひとつで、サンスクリット語を書き記す文字に過ぎないではないかと追求されて、答えに詰まった空海は言った。
「梵字休す」
「えーかげんにしなさい!
「ほんとにねっ!」