「自画像男前派」結成以来、自画像を描きまくっているが、なかなか気に入ったのが描けない。
モデルが悪い、といってしまえばみもふたもない。いますぐどうこうできるものではない。整形という手もあるが、この年で今さらと思う。
モデルとしては、表面をとりつくろうより、内面からにじみ出るもので勝負したいところだが、今のところ、内面から出たものといえば、しみそばかす吹き出物ていどで、描き込むより省略したいものばかりだ。
モデルより、描き手が悪い、ということにしておくほうが建設的だ。
モデルとしての私は、成長の見込みがないが、描き手としては、まだまだこれからだ。
と思います。
描き手として成長すれば、もう少しマシな自画像が描ける。それまで待つしかなさそうだ。S君に頼んで描いてもらってもいいが、あんまり男前に描いてくれそうにない。
先日模写をした、ドガの「若い女性の肖像」みたいな感じで、私を描けないだろうか。ドガなら描ける。ドガに頼んでみるか。
マネの「ベルト・モリゾ」の模写をするとき、S君が、模写の心得をアドバイスしてくれた。マネになりきって描け、というのである。マネは、ベルト・モリゾをどんな気持ちで見つめていたのか。そして、ベルト・モリゾの視線を感じて描け、ともいった。
マネが見つめ、ベルト・モリゾが見つめ返す、その場の雰囲気を描け。
なかなか文学的である。S君は、そんなに文学的なことをいう男ではなかったのだが、年の功であろう。
ドガが私を見つめ、私がドガを見つめ返す場を、設定しなければならない。
明治14年パリ。
新政府から派遣された若草鹿之助は、パリ法科大学で、法学を学んでいた。
鹿之助は、サンジェルマン大通り3丁目13番地、マロニエアパートに住んでいる。
朝、法科大学へ出かけるとき、いつものようにマロニエアパートの管理人、マダム・バロウムが、行ってらっしゃいと、優しく声をかけてくれた。
彼女は、夫を普仏戦争でなくした未亡人だ。
アパートを出て、シャンゼリゼを南へ、法科大学へ向かう。(地図で位置関係を調べないで下さい)
歩いていると、男が声をかけてきた。
「失礼ですが、日本の方ですか。私は、エドガー・ドガと申します」
ドガに描いてもらおうと思ったら、なかなか仕込みがたいへんである。
どんな絵になったか、いずれご報告します。