若草鹿之助の「今日はラッキー!」

日記です。孫観察、油絵、乗馬、おもしろくない映画の紹介など

読み書き

リチャード・ルビンジャー『日本人のリテラシー

リテラシー」というのは、「読み書き能力」のことで、この本は、「日本人の読み書き能力」について書かれたものであるが、『日本人の読み書き能力』とせずに、『日本人のリテラシー』としたのには、なにかふかーいワケがあるのだろうと考えるのも「リテラシー」だし、いーや、深いワケなんかない、テキトーに使ってるのだろうと邪推するのも「リテラシー」なのであって、『日本人のリテラシー』、ふ〜ん、そうですかと、ぼーっとしているようではリテラシーに問題がある。

著者が取り上げたのは、1600年から1900年までの日本人の読み書き能力である。

江戸時代の日本は、教育の面でも大変進んだ社会であって、寺子屋などのお陰で、一般民衆の読み書きの力も非常に高かった、という説がある。

また一方、映画やテレビの時代劇で、高札を前にした百姓たちが、「なんと書いてあるんだべえ。あ、お侍様、読んでおくんなせえ」などと騒いでいる場面もよく見る。

著者の結論は、江戸時代の読み書き能力は、身分、地域、男女によって、非常に差が大きかったという、常識的なものである。
この常識的結論に達する学問的努力は、大変なものですよ。

これまで、日本の読み書き能力は、寺子屋と結び付けられていたそうだ。
寺子屋が増える→寺子屋に通う子が増える→読み書き能力アップ。

しかし、寺子屋で一日中、筆でお互いの顔に墨をつけあっていた子もいる。
農業を手伝わなくていい時期だけ、ちょろっと通っていた子も多い。
寺子屋の数で、読み書き能力を測るのは問題である。

著者は「署名」に目をつけた。
「人別帳」「宗門改め帳」「庄屋さんの選挙」など、人々が自分の名前を書いたものを調べる。

江戸の初期でも、庄屋さんや、商家の主、商家のお上さんなどで、立派な花押を書けた人もいる。
○を書いたり、筆の軸に墨をつけて押して、署名の代わりにしている人も多い。

庄屋さんなど村役人や、商売をしていた人は、読み書きする必要があったので、早くからその能力を備えていた。

義務教育のお陰で、日本人のほとんどが読み書きできるようになったといえるのは、昭和に入ってからのようです。