若草鹿之助の「今日はラッキー!」

日記です。孫観察、油絵、乗馬、おもしろくない映画の紹介など

はなちゃんの進む道

はなちゃんは、激動の時代を女性として生きていく。
何かの参考になるのじゃないかと、激動の時代を生きた女性の代表格、津田梅子関連の本を集中的に読んだ。

大庭みな子『津田梅子』、山崎孝子『津田梅子』、高橋裕子『津田梅子の社会史』、飯野正子他『津田梅子を支えた人々』

面白くないだろうなと心配しながら読みましたが、四冊とも、近来まれな「面白くてためになる、元気の出る本」であった。

梅子七歳の写真は、見た人が多いだろう。
留学先のアメリカで、似合わない洋服を着て、というより、着せられて、痛々しい感じのする写真だ。

明治四年日本を出発した、岩倉具視率いる欧米視察団の中に、七歳から十五歳の、五人の少女留学生がいた。

北海道開拓使黒田清隆と後の文部大臣森有礼の発案らしい。
二人は、アメリカで学び、アメリカ女性の素晴らしい知性と社会的地位の高さに驚いた。
理想化したということもあったのだろうが、とにかく、日本が近代国家になるためには、日本の女性を、アメリカ女性なみにしなければならないと考えた。

黒田清隆は、手っ取り早い方法として、森有礼に、アメリカ人女性と結婚しろと迫ったほどだ。

日本人女性をアメリカ人なみにするには、日本の少女をアメリカに十年ほど留学させるのがいい。

とんでもないことを思いついたものだ。
維新政府は忙しかったからか、とんでもない人の集まりだったからか、そのとんでもない思い付きが通ってしまった。

政府が、アメリカ人家庭に十年間ホームステイして勉強したい少女を募集したが、応募はなかった。
当然でしょうな。

で、二次募集したら五人集まったというのだが、これはナゾですね。
一次と二次の間に何かあったのじゃないかと思うが、不明である。
七歳から十五歳の少女が集まってしまった。

皇后から、しっかり勉強してお国のために尽くしなさいというお言葉を頂いて、出発した。

年長の十五歳の少女二人は、アメリカになじめず、すぐ帰国したが、残りの三人は、十一年の間アメリカで学び、見事、お国のために役立つ女性として故国に錦を飾り、それぞれの道で活躍した。

立派である。
まあ、読む前から、津田梅子にしろ、その他の少女にしろ、立派だろうとは思っていた。

読んでみると、なんちゅうか、楽しくなるくらい立派だ。
日本とアメリカの、素晴らしい女性達が次々と登場します。