はなちゃんを散歩させるようになって、道行く人全員、病原菌保持者のように思える。
中でも、特に警戒を要するのが、長女の高校時代の教頭、Y先生だ。
我が家のすぐ近くに住む先生は、笑顔を絶やさぬ、温厚篤実な好人物である。
この先生が、はなちゃんが生まれてから、一転危険人物になってしまった。
無類の犬好きなのである。
いつも犬を抱いて散歩している。
早朝、昼間、夕方、夜、犬を抱いて歩くのが先生の日課だ。
そんな先生をほほえましく眺めていたのだが、今や私にとって先生は「犬の毛だらけの危険人物」となった。
先生の一歩ごとに、全身からモワ〜ッと犬の毛が飛び散っているのじゃないか。
絶対に、はなちゃんに近づけてはならない!
これまで、先生との「ニアミス」は、ニ、三度ある。
犬を抱いて歩く先生の姿を発見して、電柱の陰に隠れたり、横道に逃げ込んだりした。
我が家の前で、先生が角を曲がってこちらにやってくるのを見かけたことがある。
一瞬目が合ってしまった。
とっさに目をそらして、知らん顔で家に入って難を逃れた。
きのうは危なかった。
玄関のドアの前で、はなちゃんを乳母車に乗せて揺らしていた。
垣根の向こうを通る人影に、ふと目をやったのが一生の不覚であった。
Y先生だった。
先生は、珍しく犬を抱いていなかったが、それで気を許すほど私は甘くない。
さっきまで抱いていたかもしれない。
先生は、垣根越しにニコニコと声をかけてきた。
「若草さん!お孫さんですか」
無視するわけにはいかんだろう。
「はあ」
できるだけそっけなく答える。
「どっちですか」
「女の子です」
「それは可愛いでしょうなあ!」
目を細めた先生は、今にも門をあけて入ってきそうな勢いである。
はなちゃんを抱いて見せに行きたいのをぐっとこらえる。
「可愛いですね」
話が弾まないようにがんばる。
こうしている間にも、犬の毛が漂ってくるような気がする。
早く行ってほしい。
「こないだ、奥さんの短歌拝見しましたよ」
家内が、はなちゃんを詠んだ歌が新聞に出たのだ。
話題を提供してしまった。
盗人に追い銭だ。
ちがうか。
「そうですか」
私にいかに危険視されているか知らない先生は、いつになくそっけない私の応対に首をひねり、はなちゃんに未練を残しながら、すごすごと立ち去ったのであった。