先日、久しぶりに「模写」をして、楽しかったので、またやってます。
安井曽太郎の「女と犬」。
「模写」には、いろんな目的があると思うが、私の場合は、技法を学ぼうとか、画家の精神に近づこうとかいうような、殊勝な心がけで取り組むわけではありません。
好きな絵の複製を家に飾りたい、構図や色使いに悩むことなく描きたい、という安易な「模写」です。
これまで、レオナルドダビンチを筆頭に、マネ、ドガ、コロー、安井曽太郎、小磯良平、海老原喜之助と、そうそうたる顔ぶれを手がけてきました。
立派なもんです。
言うまでもなく、私じゃなくて、相手がですよ。
ヤマハの発表会では、ヒット曲を歌ったり演奏したりするのがほとんどで、オリジナル曲をやるのはまれです。
ピアノなどの発表会になるとなおさらでしょう。
絵の展覧会で、「模写」が並ぶことはないのではなかろうか。
ピアノでショパンの曲を弾くのと、油絵でマネの絵を描くのと、全然ちがうことなのだろうか。
ショパンの曲をうまく弾けたら、「やった〜!」と思うだろう。
マネの絵をうまく描けても「やった〜!」と思う。
でも、ショパンの曲をうまく弾ける方が、マネの絵をうまく描けるよりえらそうな感じがする。
「ショパン弾き」で有名なピアニストはいても、「マネ描き」で有名な画家はいない。
というか、「贋作画家」になりそうだ。
俳句の好きな人が、芭蕉を「模写」するのはどうか。
「古池やかわず飛び込む水の音」
紙にこう書いて、「やった〜!」と思えるだろうか。
思えませんね。
俳句に「模写」はなさそうだ。
いくら谷崎潤一郎が好きだからといって、『細雪』を書き写す人はない。
と思いますがあるかもしれない。
世の中いろんな人がいる。
「写経」は、「模写」みたいなもんでしょうか。
「般若心経」を写し終わったら、「やった〜!」と思えそうだ。
しかし、ただ字を写すだけではなく、お経の精神に迫る、というような境地の人は、まあないでしょうな。
となると、『般若心経』写経も、「古池や」の書き写しも、似たようなものか。
仏教系高校に通ってた人が、その学校では、停学になると、『般若心経』を写経させられたと言ってた。
こうなると、「写経」は「修業」というより「罰」だ。
その人は、タバコで停学処分を受けて、般若心経のコピーを提出して退学になったそうだ。