森鴎外の『雁』を読んで、うまいもんだなあと感心した。
先日、夏目漱石の短編集を読んでうまいもんだなあと感心したばかりである。
漱石、鴎外のうまさに連続して気づくというのもなにかのエンというか、まあ、間の抜けた話です。
ギネスブック級の間の抜けた話かもしれない。
しかし、漱石、鴎外を続けて読んだけどぜんぜん感心しなかったというよりは自他ともに安心できる話だと思う。
幸田文の『おとうと』を読みかけてやめた。
いやな話で読み続ける気がしなかった。
とちゅうで、「スパッツ野郎」が出てきたのでびっくりした。
時代は明治末で、「スパッツ野郎」?
「鳥打帽にステッキに、どうやら足にはスパッツをつけている様子なのである」
「スパッツもいやらしいし不似合だ」
「スパッツ」というのは何年か前から若い女性の間で流行ってるタイツみたいなもんですね。
それを中年の男がはいてる?
いやらしくて不似合なのは当然でしょう。
いつの時代にもヘンなのはいるから、明治末にもアヤシイおっさんがいて、スパッツでくねくねしていても不思議はないかもしれない。
しかし・・・明治にスパッツなんかあったのか。
股引のことだろうかと調べたら、どうも「ゲートル」のことのようです。
「注」を付けてほしいと思った。
アンドレ・ジッド『一粒の麦もし死なずば』を読んでたら、「キチガイナスビ」という花が出てきた。
「桃いろの夾竹桃のそばにその美しさと奇怪さが僕の記憶に深く刻まれて残っている<ジェリコのラッパ>と俗に呼ばれている、あの誇りかな姿のダチュラ(訳注:キチガイナスビ)のごときも・・・」
訳者は堀口大學さん。
「訳注」は親切だけど、この場合ないほうがすっと読める。
「キチガイナスビ」でかっくんとなって引っかかってしまった。
調べたら、「チョウセンアサガオ」のことだそうだ。
「訳注:チョウセンアサガオ」なら、ノープロブレムである。
「スパッツ野郎」には「注」がいるけど、「ダチュラ」にはなくてもいいように思った。