今日は、雨で遅れていた庭の芝刈りをしようと思っていたら、しょうちゃんがやって来た。
まずい。
1歳児しょうちゃんの前で、つつがなくとどこおりなく芝刈りができるだろうか、いやできはしまいという、修飾的疑問文だったかなんだったか、まあそんなとこです。
しょうちゃんが家の中でママと遊んでいる間に芝を刈ってしまおうと思ったんですが、20分位したとこで、しょうちゃんが出てきた。
しょうちゃんのお目当ては、「アンパンマン手押し自動車」を庭で押すことです。
きのうも押しまくってました。
ママが、「もう帰ろうよ」と言っても、押しまくってました。
しかし、いかにお気に入りの「アンパンマン手押し自動車」とはいえ、ホンモノの電動芝刈り機にはかなわないであろう。
子どもはホンモノが好きですよ。
おもちゃのケータイよりホンモノ。
おもちゃのリモコンよりホンモノ。
「アンパンマン手押し自動車」を放り出して、芝刈り機めがけてすっ飛んでくると思ってました。
ところが、しょうちゃんは、芝刈り機を押してる私を、じ〜〜〜っと眺めてるんです。
アンパンマン手押し自動車の取っ手を持って、身じろぎもせず、私をじ〜っと見つめて佇んでる。
1歳児ですよ。
1歳児が佇むか?
哲学的まなざしと思いました。
「おじいちゃんは働いてる」と思ったんじゃないでしょうか。
「ボクは、アンパンマン手押し自動車を押して遊んでる。おじいちゃんは日立電動芝刈り機を押して働いてる。このちがいはいったいなんであろうか」と思ってるのではなかろうか。
マルクスの剰余価値説だったか搾取論だったか、そこまではいかんかしらんけど、しょうちゃんなりの理論を組み立ててたのではなかろうか。
しょうちゃんにじっと見つめられながら、ひたすら芝を刈り続けたのであった。
これは労働ではなく、禅仏教における修業なのである、と言ってやった方がいいかもしれない。
そんなむずかしいことを考えてる私の高級な頭の上を、赤とんぼの群れが何の遠慮もなく飛び回っていたのであった。