若草鹿之助の「今日はラッキー!」

日記です。孫観察、油絵、乗馬、おもしろくない映画の紹介など

今は懐かしい「狂瀾怒涛の昭和」

母が入居している施設で先ごろ亡くなられたHさんは、忘れられない方である。

入居して間もないころ、母と並んで座っていた私に、Hさんが声をかけられた。
眼鏡をかけた、白髪の知的な老婦人という感じであった。
「そちら、あなたのお母さん?」
「はい」
「お母さん、何年生まれ?」
大正4年です」
「そう。私は大正8年。欧州大戦が終わってから生まれたの。欧州大戦が終わってから生まれた女を、近代女性と言うのよ。私たちはね、狂瀾怒涛の昭和の時代を生き抜いてきたんですよ。ここにいるのはね、皆戦友ですよ。昭和2年の、金融大恐慌。銀行がばたばたつぶれてね。後は戦争ばっかりですよ。満州事変に、支那事変。挙句に大東亜戦争でしょう。私は、銀行に勤めてて、12月8日の朝、開戦のラジオを聞いて、びっくりしたね。日本は負ける!て思いましたよ。いくさのヘタな国です。でも、マッカーサー占領政策に救われましたね。日本を共産主義の防波堤にするということでね、どんどん援助してね。マッカーサー、えらかったね」

エンエンと話は続く。所得倍増計画東京オリンピック、最後は、中国残留孤児の問題を論じて、
「いやー、本当に、狂瀾怒涛の昭和でした」としめくくられた。

私は、すっかり圧倒されてしまった。感心して聞いていた。すごい人だなと思った。
一息ついたHさんは、母を見て
「あなたのお母さん?」と聞かれた。
あれ?と思いながら
「はい」と答えると、
「お母さん、何年生まれ?」
ありゃりゃ、と思いながら
大正4年です」
「そう。私は大正8年。欧州大戦が終わってから生まれたの。欧州大戦が終わってから生まれた女を近代女性と言うのよ」

ありゃりゃ、と思うまもなくトンネルの、じゃなかった昭和史の独演が始まった。
全く同じ話である。私は、感心と当惑の入り混じった気持ちで聞いていた。
残留孤児の話になって、「いやー、本当に、狂瀾怒涛の昭和でしたね」

一息ついたHさんは、母を見て
「あなたのお母さん?」

これは大変なことに巻き込まれてしまった。なんとかしなければと、質問したりして話を変えようとしたが、Hさんは無視して強引に同じ話を続けた。

「いやー、狂瀾怒涛の昭和でした・・・・あなたのお母さん?」
私は泣きたかった。

6回目が終わった瞬間を逃さず、私は母の手をとって立ち上がり、「散歩してきます」と逃げ出したのであった。