横浜の叔父が亡くなった。
母の弟である。
母の父親は厳格な人で、子供は皆固いが、この叔父はくだけたところがあった。
母がすっかりぼけてからのことだが、突如「おさむ!」と、こわい顔で叔父の名前を呼んだことがある。
やんちゃな弟だったのだろう。
母は、もう一人の弟には、「ただすさん」とさんづけだったが、この叔父は「おさむちゃん」と呼んだ。
二人とも「帝大出」だったが、母にとってはかなり差があったようだ。
叔父は、「オレだけ『ちゃん』だもんなー」と笑っていた。
私は、大学時代横浜にいたので、時々叔父の家に行った。
叔父には小学一年の男の子と、三年の女の子がいた。
男の子は、私の顔を見ると、「プロレスしよう!」と叫んで飛び掛ってきた。
女の子は、友達とゴム飛びをするとき、私にゴムを持たせて電柱代りにした。
子供たちは大歓迎してくれたが、叔父の家に行くのはちょっと気が重かった。
よく夫婦喧嘩をしたのだ。
他愛もない口喧嘩だが、私の両親は喧嘩をしなかったので、免疫のない私はこれがいやだった。
夕食の時、口火を切るのは叔母さんだ。
「鹿之助ちゃん、聞いてちょうだい!今度という今度は別れようと思ったわ」
思いつめた表情といい、事態は深刻そうだが、叔母の口癖なのだ。
「パパとデパートに行ったの。私はスリッパ立てを買おうと思ったのに、パパったら・・・・」
ス、スリッパ立て・・・。
時により、スリッパ立てがテレビの「バークレー牧場」だったり、飼っていた犬だったりする。
叔父が反論し、二人が私を味方につけようとする。
いたたまれず私が、「ご馳走様でした」と席を立とうとすると、
「アラ!鹿之助ちゃん!」
「逃げんでもいいじゃないか」
今なら大喜びだ。
どっちも負けるな!
あおりたてたり茶化したりで、大いに楽しませてもらうところだ。
当時の未熟な私にはそれができなかった。
ドライブにも何度か行ったが、高速道路走行中に始まるとスリルがあった。
口ではかなわない叔父がスピードを上げるのだ。
叔母が怖がって、「パパ!いい加減にしなさいよ。何キロだと思ってるの」などと言おうものなら、ますますスピードを上げるのであった。
「そんなにスピード出したって、誰もほめてくれないわよ!」
叔母の引きつった顔を思い出す。