テレビで、金平糖の作り方を説明していた。
これまでにも何度か見たことがある。
砂糖のかたまりという単純なものだけに、どうやって作るのだろうという疑問は誰しも抱く。
それで、繰り返し取り上げるのだろう。
もともとはポルトガル伝来のものだ。
「金平糖」の歴史は古い。
中世ヨーロッパの修道院で作られ始めた。
当時も今も、修道院は自給自足の世界である。
パン、バター、チーズ、リキュール(「養命酒」のような薬用酒)など、すべて手作りであった。
10世紀にイタリアの修道院で、糖蜜を固めた「栄養補助食品」が作られるようになった。今で言う、「サプリメント」である。
そして、その形から「コンペイ党」と呼ばれた。
「コンペイ党」は、キリスト教の歴史に登場する。
紀元1世紀、ローマ帝国の支配下にあったユダヤ人の中で、暴力に訴えてでもユダヤの政治的、宗教的独立を勝ち取ろうとする過激派があり、「熱心党」あるいは「ゼロテ党」と呼ばれていた。
「ゼロテ」は「熱狂者」、英語の「zealot」
彼らは、「ダビデの星」をシンボルマークにしていた。
正三角形を二つ組み合わせた、強力な呪力を持つとされた印だ。
これに対して、暴力的手段ではなく、罪の告白によってのみ神の国が到来すると考えた一派があり、「告白党」あるいは「コンペイ党」と呼ばれた。
「コンペイ」は、「告白」、英語の「confess」
彼らは、ダビデの星を幾重にも重ねた印をシンボルとした。
修道僧達は、糖蜜を固めた形が、「コンペイ党」のマークと似ていることから、この菓子を「コンペイ党」と呼ぶようになったのだ。
ところが、16世紀、宗教改革の時代になると、「コンペイ党」は、異端の食べ物として危険視されるようになる。
法王庁や異端審問官の目を逃れて密造され、修道院での栄養源となっていた。
コペルニクスが修道院で、「コンペイ党」を口の中で回転させながら思いついて「天球の回転について」を著したことは意外に知られていない。
しかし、ついに「コンペイ党」製造の罪で、ドミニコ派の修道院長が宗教裁判にかけられ、製造禁止を言い渡される時が来た。
その判決を聞いて、院長が「それでもコンペイ党はおいしい」とつぶやいた話は有名である。
その後もひそかに作り続けられ、フランシスコ・ザビエルによってその製法が日本に伝えられたのである。