若草鹿之助の「今日はラッキー!」

日記です。孫観察、油絵、乗馬、おもしろくない映画の紹介など

賢人ナータン

ルートヴィッヒ・ハーゲマン『キリスト教イスラーム:対話への歩み』

著者は、ドイツの大学のカトリック神学部の教授である。キリスト教徒とムスリムは敵対を続けてきたが、1960年代に入ってやっと対話のきざしが見えた。それがまた9.11以降逆戻りしたような感があるので、実りある対話のために過去を振り返っておこうという観点から書かれた本だ。

ムスリムとの最初の接触以来の、キリスト教徒の誤解と攻撃を紹介してある。元々のタイトルである、『キリスト教イスラーム:その不幸な歴史』の方が中味をよく表していると思う。
私たちは、「マホメット」と習ったが、今は「ムハンマド」と言うし、「イスラム教徒」ではなく、「ムスリム」と言うようだ。「ムスリム」というのは、「己のすべてを神に委ね、真正で真実の平安を見出すという内的な態度」のことらしい。「ムスリム」という単語は、「aslama」という動詞の「能動分詞形」で、「イスラム」はその「動名詞形」であるという説明を読んでもなんだかよくわからない。

ムスリムからのキリスト教への攻撃が面白い。
「なぬ?イエスは神の子?へーえ、神様には奥さんがいたのかね」

マルチン・ルターは、キリスト教の敵は、ムスリムではなくカトリック教会だと言っている。アンチクリストは、ムハンマドではなくローマ法王だと主張したというのだから、すさまじい敵意である。

18世紀のドイツの作家レッシングは、ユダヤ教キリスト教イスラームの三つの教えを、『賢人ナータン』という作品の中で、三つの指輪のたとえで説明した。
ある家に、代々奇跡の指輪が伝わっていた。この指輪を持つ者は、神からも人からも愛されるというのだ。
父親は、息子の中で最愛の者にその指輪を与える。ある時、三人の息子に恵まれた父親が、三人を平等に愛した。困った父親は、奇跡の指輪とそっくりな指輪を二つ作らせて三人に一個ずつ分け与えた。後に息子たちは、自分のが本物だと裁判を起こした。判定が付かず悩んだ裁判長はこう宣言する。神からも人からも愛されるような生き方をした者の指輪が本物だ。

実にうまいたとえ話だ。すべてを語っているともいえるし何にも語っていないともいえる。
ナータンというより、なーんだという気もする。うまいしゃれではないというより、はっきりヘタなしゃれだというべきだろう。