若草鹿之助の「今日はラッキー!」

日記です。孫観察、油絵、乗馬、おもしろくない映画の紹介など

二年生おめでとう

幼稚園が、出来立てのほやほやで、戦後復興と民主主義の象徴みたいに、明るくモダンでピカピカであったため、空襲の焼け残りみたいな小学校にがっかりした。

おまけに、担任の先生が、離婚騒ぎで来たり来なかったりで、せっかくの「小学一年生」は、すっきりしないまま終わった。

二年生はよかった。
なんだかわからんが、好印象が残っている。
担任の若い女の先生のことが好きだったのだろう。

山口先生についての記憶は、ふたつしかないが、「二年生」と聞くと、ホンワカするのは、そういうことにちがいない。

ある日、私が、国語の時間に、教科書を読んだ時、先生に、「若草君のおうちには、どなたか東京の方がおられるんですか」と聞かれた。

どういう意味かわからず、帰ってから母にその話をした。
母が、教科書のどこを読んだのかと聞いたので、そこを読んだ。
「かま(鎌)」という言葉が出てきた。

母は笑って、「おばあちゃんに聞いてもろたんやね」と言った。
祖母が東京の人で、関東弁だった。
その部分を、私は祖母の指導で読んでいたのだろう。
「かま」を、関東風アクセントで読んだので、先生が不審に思ったのだ。

当時の大阪の子供の世界では、関東風アクセントは、迫害の対称だったから、私は、祖母からの口移しで、それとは知らずに使ったのだ。

もうひとつも、国語の時間の記憶。
S君という、かなりぼんやりした子がいた。

教科書を読んだ。
「こんこんこなゆき、ゆきのまち」というのを、「こんこん、ゆきだらけ」と読んだ。

先生は、「S君は、作るのが上手やねえ」と笑った。

先生の記憶はこれだけである。
もうひとつは、先生に関する「衝撃のスクープ」だ。

クラスの誰だったかが教えてくれた。

山口先生は、音楽が得意で、音楽を教えていた。
ところが、音楽専門の三宅先生がやってきて、山口先生は音楽を教えられなくなった。
先生は、さびしさをまぎらすため、放課後の音楽室で、ただ一人泣きながらピアノを弾いている。

この話を聞いた時、胸が張り裂けそうになった。

そんなかわいい二年生であったが、山口先生が結婚して、和泉先生になり、そのうち転勤して行っても、一人前の小学生男子に成長していた私は、ふ〜んと思うばかりで、さびしがりもせず、別れも惜しまず、運動場を駆けずり回っていたのであった。