お葬式は、死に直面する数少ない機会です。
ありがたいことに、これまで自分より若い人の葬式に出たことがなかった。
二十年ほど前、同級生の葬式に出たことはありますが。
きのうの葬式では、残された二人の女の子を見てるのがつらかった。
小学生と幼稚園なんですが、父親の死を嘆き悲しむ様子はなかった。
下の女の子なんか、従姉の中学生のセーラー服に抱きついたりひざに飛び乗ったり、喜んでるみたいです。
「子供は悲しみから守られている」というのを読んだことがあります。
大いなるものによって守られてるのかもしれない。
自分で悲しみと戦ってるのかもしれない。
あきらくんやしょうちゃんは幼稚園児ですが、ほとんどなんでもわかってるように思います。
びっくりするほどわかってる。
それでも悲しみからは守られてるんでしょうか。
伯母が残した日記に、母親の死について書いてあります。
伯母が小学校5年生の時に母親が亡くなった。
大人たちは泣いていたが、伯母は泣いてはいけないと思ってがまんしていた。
それを見た大人たちは、この子はそれほど打撃を受けていないと思った。
小学校の先生も、「だいじょうぶ」と判断した。
でも自分は悲しかったのだと書いてます。
伯母が母親の死を受け入れるのに二十年ほどかかったようです。
人を死別の悲しみから守って、受け入れさせるものが儀式ですかね。
葬式は、浄土宗西山禅林寺派でした。
私にとっては初めての宗派でした。
読経の途中でお坊さんが、竹の束を床に投げた。
長さ6、70センチの細い竹を20本ほど赤と白の布で束ねてある。
それを投げ捨てる。
一組投げ捨ててから読経を続けてもう一組。
どういう意味があるのか聞きたかった。
死を受け入れなさいというようなことでしょうか。
言葉で説明しきれないから竹を投げるんでしょうね。
この子たちも、自分なりに竹の束を投げてるんだろうと思いました。