文明開化期の日本語について書いた本だ。
「開化」という言葉が初めて現れるのは明治4年の仏和辞典で、「civilisation」の訳語として出てくる。
幕末の英和辞典では、「行儀正シキコト」となっているそうだ。
モールス電信機が伝わって、各地に「電信局」ができたが、はじめは「伝信局」だった。
翻訳の言葉も色々かわる。
キリスト教の聖書の日本語訳も何度か改められている。
この本に、昭和62年に新共同訳聖書が出たときのエピソードが紹介してある。
熱心な信者であった主婦Aさんは、聖書の詩篇第23に出てくる字を子供の名前にしていた。
「主は私を緑の牧場に伏せさせ、いこいのみぎわに伴われる」
ここから三人の子供達に、「緑」「真喜(牧)」「みぎわ」という名前をつけていたのである。
いいんじゃないでしょうか。
ところがである。
十数年後、新しく出た新共同訳聖書を読んだAさんは聖書を落とさんばかりに驚いた。
「主はわたしを青草の原に休ませ、いこいの水のほとりに伴い」
なんということであろうか!
「緑」も「牧」も「みぎわ」もなくなっているではないか!
熱心な信者であるAさんは、しかたなく子供達を改名させ、「緑ちゃん」は「青草ちゃん」、「真喜ちゃん」は「原ちゃん」、「みぎわちゃん」は「水のほとりちゃん」になったという悲しい物語である。
キリスト教でどうしても納得できないのは「イエスの復活」だ。
「知識人」といわれる信者でも、「歴史の上で一回だけ実際に起こったのだ」などと無茶苦茶を言う。
死んだ人が生き返るなどということはいくら古代人でもまともな人は信じなかっただろう。
事実、パウロがギリシャで伝道活動をしたとき、議論好きのギリシャ人たちはパウロが「新しい教え」について語るのは熱心に聞いてくれたが、「イエスの復活」について話したところ、あきれて一人もいなくなったと聖書に書いてある。
納得できる説明は、イエスが化けて出たということだ。
イエスを見捨てた弟子達は、良心の呵責にさいなまれていた。
それでイエスの幽霊を見たのである。
何とかイエスの霊を慰めようとした弟子達が、初七日から満中陰までねんごろに法要を執り行い、迷わず成仏してくださいと祈ったのがキリスト教の始まりである。
キリスト教は仏教なのだ。
キリスト教はユダヤ教の分派であるとする従来の説を覆す私の新説である。